適切なひねり

よくストーリー作り、脚本作りの基本に「ミスリード」と「起承転結」とを教えるものがある。こうかと思わせて実は違ったという「ミスリード」は語りにひねりを与え、前述のベタとひねりでも述べたように読者を楽しませる。「起承転結」は、その語りのダイナミズムを増幅させる(緩慢にしない)構築法だと言える。「ミスリード」でオチとのギャップを作っておいて、最後にドーンと転・結してカタストロフィーを演出するのは確かに基本だ。

が、その事は、ストーリーの叙述の基本は「ひねり」であることの発展的な言い換えである。作品の語り口が受け手に対して「適切にひねられている」のが芸の基本だ。これを忘れては「ミスリード」も「起承転結」も無意味な技巧と化す。

例えば、宇宙で遭難した人が未来の変わり果てた地球に不時着したとしよう。ミスリードと起承転結を駆使すれば、最初はどこかの星だと思わせておいて、話を盛り上げたところで地球でした!とタネをばらすのが定石と見える。

しかし、この話は「猿の惑星」のあまりにも有名なあらすじと同じである。盗作の問題はさておき、作品の受け手はこのくらいの事は知っているという前提にたてば、上のようにミスリードと起承転結を駆使するのは途方もないミスだ。作者はいっぱしの作品を作ったつもりで、えんえんベタな展開で受け手を退屈させることになる。

上の例はネタバレしているのでそもそもミスリードにも起承転結にもなっていないとも言えるが、新鮮さを欠いたストーリーを描けば多かれ少なかれ、同じような退屈につながる部分はある。

つまり受け手に対して「適切なひねり」を考えることが、ミスリードと起承転結よりも基本にあるのである。上の場合は状況を説明して話を進めるほうが断然良い。例えば「未来の荒廃した地球に不時着してしまった。猿みたいな人間だらけだ!」という状態から始まる漫画は、少しスレた読者もしばらく興味を持ってくれるだろう。大人相手なら、むしろそのくらいが普通かもしれない。

一方「ひねりすぎはいけない」と教わることも多い。「普通のハッピーエンドじゃつまらないから、ちょっとアンハッピーにしてみた。」というようなひねりがダメなひねりとして典型的だ。作品の作りからしてハッピーエンドが気持ちよい展開と感じる人が断然多そうな作品でも、作者がなんとなく少数派の選択肢を選んでゴニョゴニョしてしてしまう。そのゴニョゴニョに作者の言いたい事が含まれているとか、それが歴史的真実だとか、他のオチを引き立てているとか、何か意図的なものがなければ、ただ完成度を下げるだけである。*1

受け手が意味が分からなくなったり、どこを面白がったらいいか戸惑うようなものも「ひねりすぎ」である。例えば5歳児向けの漫画で、時系列がこんがらがった回想シーン満載の話にしてしまうとか。

しかし「ひねりすぎ」ができる人は本来は芸があるのだから、気をつければ「適切なひねり」にたどり着ける公算が高そうだ。「ひねりすぎはいけない」と注意する人は、まず「ひねれ」と教えてから注意するべきだろう。

*1:「ひねり」と言うのは、ひねった状態を元に戻すと気持ちいい!となったり、ひねることによってありきたりな素材に別の見方がでてきて面白い!となるような仕掛けのことであって、そういう構造になっていない、もしくは読み手がひねりについていけなくて気持ちよくないひねりはひねりとは呼べない。それはもはや「面白くなりそうな構成を破壊する部分選択のミス」になってしまう。料理に例えれば「甘いのは普通だから塩味のあんみつにしてみた」ぐらいの失敗かもしれない。塩味のあんみつを食べたことはないけれども。