「キャラクター優先」について

もうひとつ、キャラクターに関して勘違いしていたことがある。「キャラから作る」「キャラクター優先」という芸当は、人形を用意して即興で人形劇を展開するようなもので、僕にはできないと考えていた。

しかし「キャラから」という作品でも、通常は作品の「テーマ」がまず作家の希望なりマーケティングなりで決まっているものだ。テーマが決まっていなければキャラは作り込めないし、登場人物はテーマに向かって(紆余曲折はあるかもしれないが)動いて行く。

 というわけで『ゲームセンターあらし』は、主人公の「絵」だけが先に決まり、あとから生い立ちや性格といった「履歴書」を考えることになった。ぼくにとって初めての「キャラクター優先マンガ」となったわけである。

「ドジでマヌケで憎めないキャラクターに」というギャグマンガのような設定は、アンケートで得られていた「読者好みのキャラクターのイメージ」を踏襲したものだ。

http://sugaya.otaden.jp/e90247.html

ゲームセンターあらし」の場合も、「ゲーム」というテーマ、そしておそらく主人公が対戦していくストーリー構造までは決まっていただろう。この記事ですがやみつる先生が例に挙げている石ノ森章太郎先生のキャラ群にしても、ヒーロー物等の構想があって、キャラ作りされているように思える。

演劇で言えば台本に当たるプロットまで先に決まってしまえばキャラクターの行動はガチガチに制限されるが、「このキャラを使ってこういう事を表現しよう」という作者の論理的な構想ぐらいまでなら、キャラは制約無く作者と協調する事ができそうだ。また先日の記事に書いたようにキャラクターの本質は外側、仕草、上っ面にあるので(『キャラクター』は『キャラ』と違って『中身』があるという説には賛同しない)、ストーリーの工夫によって矯正し軌道修正する事ができる。

つまり「テーマありき」で「キャラクター優先」漫画というのは、矛盾しないのだ。「メッセージ重視」の作品でキャラを作り込む、という事も矛盾しない。実際にはキャラを立てるためだけにページを食ってしまうということはあるだろうが、理想的にはテーマの論理的展開とキャラが立つ描写は同居しうる。それが面白い漫画、ということのようだ。

とはいえ、多くの人が強調するように、最終地点も見えぬままに連載を始め、キャラの動くままなんとなくテーマの周りをぐるぐるを回らせ、無作為に掘り進めたアリ塚のような全体像をなす作品作りのほうが良い作り方なのかもしれない。この点は僕なんぞには計りがたい。

「プロット優先マンガ」の場合、キャラクターはプロットに沿った行動しかできず、弾けることもなければ、意外な行動に出ることもない。

 マンガや小説を創作していると、ときどき「主人公が勝手に動き出す」ことがある。思ってもいなかった方向に物語が展開しはじめるのだが、このような事態が起きるのも、まさに「キャラクターが起った」からこそだろう。

ゲームセンターあらし』は、成立の過程で「キャラクター優先マンガ」にならざるを得ない状況になっていたのだが、これこそが「由緒正しいマンガの創り方」だと気づいたのは、ずっと後になってからのことだ。

 ぼくは、物語を創ることに未練があり、とうとう娯楽小説作家に転進してしまったが、キャラクターが重要な点はマンガと変わらない。たまたま「設定」や「世界観」が優先される架空戦記小説の執筆が多いが、読者の反応が良かった作品(自動車レース小説がほとんど)は、いずれも主人公をじっくり書き込んだものばかりだった。

ただよく言われる「キャラが勝手に動く」現象については、ちょっと神話的というか、過剰な崇拝意識を感じる。凡作駄作でもキャラは勝手に動いていたかもしれず、本当にキャラが勝手に動くほうが面白いのかという問題がある。「キャラが勝手に動く」のは達人がたどり着く境地のようなものではなく、アンチ構成主義的なひとつの方法でしかないような気がする。

また制作者側には分かっても、読者が勝手に動いているキャラかそうでないかを感じる事はかなり難しい。テーマがキャラをひっぱるように、物語の論理的な都合がキャラの思いがけない行動を引き出す事は多い。先日、柴門ふみ先生がテレビで、東京ラブストーリーの「セックスしよ」の名台詞は連載の進行上、二人がとっとと寝なければいけなかったからという話をされていた。勝手で動かされてキャラが立つという事もある。