印刷漫画におけるぼかし処理

MAJOR 67 (少年サンデーコミックス)
「MAJOR」67巻を読んだ所、表紙の彩色を含めたCG処理の導入が気になった。見返してみると、表紙は65巻からCGブラシのように見える。正直塗りは稚拙に見え、ウェブ上で公開されているアマチュアの絵師にも見劣りする。
パソコンを買ったのでやってみました、という程度のことなのだろうか。もうちょっと上手くなってから切り替えてもらいたいが、満田先生本人が塗っているとすれば練習の時間もなく本番でとなってしまうのだろうか。どうも良いところがない。
本編ではCG処理が効果的なシーンと個人的になじまないシーンに分かれた。基本的に、それと気づかないようなところはまくいっているはずだ。69ページのモニタにかけられたぼかしは、テレビ画面の表現として分かりやすかった。

一方134、156P。試合の場面で手前のプレイヤーにぼかしをかけて遠近感・ピントを表現する方法は気になった。59、92Pの催眠や覚醒時のぼかし表現も気になる。舞台上の事物にぼかしがかかり、それを見ている者の視点を再現することで臨場感を出そうという狙いだ。

べつに気にならないと言う人も多いだろうし、効果は分かる。まだこの作品の中で新しい表現なので私が慣れないという面は大きいと思う。多用されていくうちに「処理してるな」と意識は薄れていくものかもしれない。

ただもうひとつ、もともと作画が良いこともあり、全体の調和が欠け、完成度が下がるという問題もあると思う。

スミ1色の漫画の絵は印刷で表現可能な「最小の黒一点」で構成されている。1200dpiなら0.025ミリ程度のはずだが、実際にはもっと大きいだろうか。

一方ぼかし処理をした画は、複雑な網の濃淡によってそこに何が描かれているかを判断する。画の最小構成単位が「網のサイズ」になる。トーンも同じことで網のサイズで一点一点の大きさが決まるが、濃淡で図像が描写されている場合は少ないので、ぼかし処理よりも網のサイズは意識されにくい。

この最小構成要素の不一致が、絵の調和を乱すのだと思う。だから処理してるな、と気になりやすいのかもしれない。ぼかしと言えばやまだないと先生の作が思い浮かぶが、私にはやはり活字と画の「なじみ」が気になった。

新しい表現に反対するわけではないので、そこを乗り越えて完成度が高まれば素晴らしいと思うが、印刷媒体では原理的には難しいように思える。ウェブ上で公開されているデジタル漫画では、活字と言っても解像度が低くモニタ上でにじんだ文字なので、絵にぼかし処理があってもさほど気にならない。